プロローグ
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今日も街に流れる「願いを叶える神様」の噂話。 そんなモノ、御伽噺だと笑う者が大半だろう。 ここは神秘を排し、人智を以て復活を遂げた国であるが故に。 しかし奇跡は誰が望まずとも訪れる。 それが本当に人々を救うかなど、神にとっては預かり知らぬ事。 皆、もう目を逸らすことは出来ない。 *** 雑踏を切り裂くように、拡声器から声が響く。 「叶えて欲しい願いはありますか」 「辛いこと、苦しいことはありませんか」 「貴方の願いは、神様が叶えてくれます」 耳障りな音声に人々は眉をひそめて通り過ぎていく。この国の人間はほとんどが無神論者であり、仮にそうでない者が居たとしても、どうせ胡散臭い新興宗教の類だろうと相手にしないのは至極当たり前のことだった。 拡声器を持つ声の主は若い男女。二人とも白ランを身に着けており、何処か異様な雰囲気を漂わせているが──誰も振り向かない中で必死に声を張り上げている様子は滑稽を通り越して哀れですらあった。 だが、人混みを掻き分けるようにして一人の青年が彼らの元へと近付いてきた。二人は声を止めて青年の方を見る。彼らの表情には、ようやく自分たちの話を聞いてくれる人が出てきてくれたことへの喜びが滲んでいた。……それとは対照的に、青年は無表情だった。温度のないペリドットの目線が二人を見つめている。 少しの沈黙が流れた後、先に話を始めたのは白ランの男女の方だった。 「貴方は我々の話を……願いを叶える神様の話を信じてくださるのですか?」 「少し気になっただけだよ」 それは決して肯定ではない。だが彼らにとっては無視でないだけで十分だった。興奮したような声は拡声器を通さずともよく響いた。 「でしたら是非我々の集会へご参加下さい!」 二人はそう言うと青年の腕を掴み半ば強引に脇道へと連れ出した。傍から見れば事件のようだが、特に抵抗もせず彼らについて行くことにしたようだ。 彼は、神など信じていなかった。ただ少し興味があっただけのことだ。──願いを叶える神様なんて馬鹿みたいな話と、それを真剣に訴え続ける彼らに。 青年が連れてこられたのは隣町の広場だった。決して人目につかない場所では無いのに、何故か道行く人は誰もこの集会に目を向けようともしない。無視していると言うより、まるで存在に気づいていないかのようだった。 広場の中央には小さなステージが備え付けられ、その前に数十脚置かれたパイプ椅子は既にほとんどが埋まっている。二人に促され青年は一番後ろの椅子に腰かけた。 程なくしてステージの上に現れたのは、二人と同じ白ランの上に黒いマントを着た赤髪の男。歳は青年と変わらないくらいだろうか。 「ご覧下さい、彼が我らが教団のリーダー……いえ、教祖でございます」 教団と言った。やはり宗教組織のようだ。それも相当若い人間がトップに立っているあたり決して歴史など無い、新しい組織に違いない。だが仮に金銭を騙し取るのが目的ならばここまで大っぴらに集会など行わないだろう。──ここに居るのは青年のような興味本位の野次馬か、それとも彼らと志を同じくする者なのだろうか。 「お集まり頂きありがとうございます」 低くよく通る声がマイクを通して観衆の元に届く。この場にいる誰もが赤髪の男に視線を向け、物音ひとつ立てることもない。不思議な緊張感が漂っていた。 「ここにいる方々は皆、それぞれ切実な願いを抱いているはずです。そして神様に縋りたいという心は誰に否定されるものでもない。……願いを叶えたい、そのために我々の活動に協力して下さった皆様には感謝してもしきれません」 流暢に紡がれたのは率直な言葉。真意は分からないが、人の心を掴む力を持った者の言葉。──それ故に、男は教祖と呼ばれているのだろう。 「今日は皆様に良い報告があります。──我々は願いを叶える神様、その生まれ変わりを発見しました」 神様の生まれ変わりだなんて、普通に生きていたら聞くこともない言葉。だがここに集まっている、「願いを叶える神様」を信じる者たちは違った。 ──観衆がざわめき始めた。それを合図にしたかのように空中に映像が浮かんだ。そこに映し出されたのは椅子に座ったごく若い女性。声を発することはなく、虚ろな目で前を見ているだけ。しかし人形のような出で立ちが、彼女を特別な存在のように見せていた。 男は願いを叶える神様の生まれ変わり、と称した女性の映像を背景に演説を続ける。──荒唐無稽な話にしか聞こえないが、神を本気で信じる者たちにとって理屈など不要なのだろうか。 「間もなく人々の願いは叶います。我らが神の生まれ変わりである彼女が叶えてくれます。しかしまだ不完全なのも事実です。だから、今後も皆様のご協力が必要です。どうか人々の幸福のために、お願いします」 ──この場を包んだのは拍手と歓声。教祖と呼ばれた赤髪の男は深々と一礼し、ステージを降りて行った。感衆の熱気に反して、彼はここに現れてから去るまで一度たりとも笑顔を見せず、むしろ何処か苦しそうに見えたのは青年の気のせいなのだろうか。 集会が終わり人の気配がなくなっていく中で、青年は先程の二人に引き止められていた。 「如何でしたか。教祖様の話を聞かれたのです、我々の神を信じて下さいましたよね?」 「そして我々に協力して下さいますよね?」 断定するような口調は信心の表れか。それとも教祖への絶対的な忠誠故か。当然これから彼らの組織──教団に勧誘されるのだろう。 しかし、青年はそれをあっけらかんと否定した。 「いや別に。協力しようとは思わないけど」 「……え?」 「ど、どうしてですか? もうすぐ貴方の願いも叶えられるのですよ?」 信じられないものを見た、とでも言うのだろうか。呆気に取られて声が震えている。彼らの価値観では「願いを叶える神様」は実在するし、かの神を求めない人間は存在しないのだろう。 そう狼狽える二人に、青年は淡々と答えを返した。 「神なんて最初から信じてない。それに、願いを叶える神様が本当にいるとしても──」 椅子から立ち上がり踵を返す。そして去り際に、二人が聞こえるか分からないぐらいの声を残していった。──今までほとんど動かなかったその顔に、わずかな自嘲を湛えながら。 「──誰かに叶えて欲しい願いなんて、僕にはもう無いから」