第9話 依頼人(上)
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視覚も聴覚も利かなくなる程の猛吹雪の中で、少女の声が響き渡る。 「わたしはただみんなに幸せになってほしかっただけ。それなのになぜあなたはわたしを壊そうとするの? あなたは幸せになりたくないの?」 少女が叫んだ相手は、目の前に立つ長身の男。ロングコートを翻らせ、少女を無言で見下ろしている。 「こんな体じゃもうだれのことも幸せに出来ないよ……!」 「……」 少女の体は見るも無残に破壊されようとしていた。両脚をもがれ、胴には風穴が開けられ。しかし生物であれば流すはずであろう血は1滴も落ちず、空っぽな中身を風雪に晒している。出来の良い人形のような、ヒトでないモノ。 男が少女の左腕を斬り落とした。しかし少女は痛みを感じる素振りすら見せず、残された右腕で男に縋りつく。 「ねえ、お願いだから許して……!」 ”少女の形をした何か”は悲痛な表情に反して涙は決して溢さない。最後の四肢である右腕の力はヒトであれば有り得ないほどに強い。そんな少女の縋る手を男は振り払い、肩の部分を掴んで引き千切った。 「俺はお前を……許すわけにはいかない」 僅かに震える声は寒さのためか、それとも抑え込んだ激情のためか。男は動く術を失った少女のもとに膝をつき、首に手をかける。少女の”命”を握った男は温度の無い声で言い放った。 「お前の行いは人を幸せになど、していない」 「え……?」 「目に付いた不幸な人間を手当り次第救ってるだけだろう」 「だって! そうすれば不幸な目に遭う人はいなくなるでしょう?」 「お前が全ての人を救っているなら、な」 「どういうこと? わたしはみんなを助けているよ? わたしはだれも不幸になんてしていないわ……」 本心からの言葉だろう。だが、男にとってはそれ故に堪え難く──。 「……そうか、お前はそう思い込んでるんだな」 ──男の声に蔑むような冷たさはもう無い。ただ怒りが、その身を燃やすほどの激昂が男を駆り立てている。 「お前に救われた人もいるだろう。だが……お前のせいで、俺の……は……!」 暴風に掻き消され男の掠れた声は少女に届かない。 「どういうこと? あなたはわたしのせいで不幸なの……? だったらわたしがあなたを──」 「違うな。俺じゃない」 少女が目を見開く。声に瞳に、全身に深い絶望を宿したこの男こそが自身を恨んでいるのではないのかと──。 「それじゃあ、だれを……」 「……もう手遅れだ」 そして、男は少女の細い首を握り潰した。身体の破片がパラパラと手から零れ落ちる。これでもう人間がヒトならざるモノの”善意”に振り回されることはなくなるはずだ。だが男に達成感は無かった。 何故なら、この少女を壊すことが男にとっての復讐だったから。それを叶えるためならばたとえ世界がどうなろうと構わなかった。そこで得られるものが何も無かったとしても、躊躇いなど初めから無かった。ただ少女の行いによって奪われたものを悼むだけだ。 「────この、出来損ない」 ──少女の残骸に雪が降り積もり、白く染め上げられていく。少女に背を向けた彼の眼は、燐火の如く揺らめいていた。 *** 午前8時半。普段ならば始業時間の9時ギリギリに起き、朝礼を済ませてから朝食をとるような生活を送っている桜井だが、今日は珍しく支度を終えた状態で事務所のある2階に降りてきた。だが彼が一番乗りということはなく、既に月形がデスクに座っていた。彼女の出社時間はいつも早い。 「……今日はお早いですね。早速少し桜井さんに見て頂きたいものがあるのですが」 桜井が多少早く起きてきたくらいでは驚きもしないのは彼女本人の性格と、付き合いの長さゆえである。 「早く目が覚めちゃったからね。というか眞弥さんはもう少しゆっくり出社してもいいんだよ……それで、見て欲しいものって?」 月形はパソコンの画面を指差した。画面には日本支部のアドレスに送られてきたメールが表示されている。差出人は「石蕗三知也」、送られてきたのは今日の午前6時頃だ。 「どれどれ……これは初めて見る名前だね。このメール、眞弥さんはもう読んだの?」 「はい。ですが少々気になる内容でしたので……」 「オッケー、じゃあ皆が来る前に片付けてしまうね」 「お願いします」 桜井は月形の隣にデスクチェアを引っ張ってきて座り、画面を覗き込んだ。 「SDEP日本支部 御中 ここ数日、願いを叶える神様とやらを信奉する人間に付き纏われています。彼らが私のような平凡以下の魔術使いを求める理由を調べて頂きたいと思い連絡致しました。 もしこの依頼を受けて頂けるのであれば、そちらに直接お伺いしたいのでご都合の良い日時をご返信ください。よろしくお願い致します。 石蕗三知也」 非常に簡潔な文面。だがそれだけでも、これが珍しい依頼だと桜井が理解するには十分だった。SDEP日本支部は表向きごく普通の探偵事務所を名乗っており、普段は魔術と関係のない依頼がほとんどである。そもそもこの国において魔術使いだと名乗ること自体、相応のリスクを伴うのだ。つまり──。 「この人はウチが魔術使いの組織であることを知った上でこんな依頼をしてきたってわけだ」 「まあ、一般人から見ればこの方はただのストーカー被害者でしょうし」 魔術使いではない月形らしい意見に桜井はクスリと笑う。 「ふふ、そうだねえ……だが『願いを叶える神様』絡みとなると一般人では頼りない。これは私たちで受けるしかないね」 「ええ。早速ですが今日にでも依頼人の方には事務所に来て頂きましょう」 そう言うと月形はキーボードを叩きメールに返信した。すると数分もしないうちに「それでは午前11時にお伺いします」といった内容のメールが届いた。 *** 午前9時。出社した八坂たちは桜井から「今日はパトロールに行かずにここで待機しててね」と言われ、事務所で各々適当に時間を潰していた。 「先輩に水都さん、なにか飲みます?」 「それじゃアイスコーヒー頼めるか?」 「……水で」 「はいはい、ちょっと待ってくださいねー」 2人の注文を聞いた椿樹はグラスに氷を入れ、コーヒーメーカーで豆から抽出したコーヒーを注ぐ。別のグラスには冷蔵庫から取り出したミネラルウォーターを注ぐ。最後に自分の分のオレンジジュースを注いで盆に乗せ、デスクに持ってきた。彼女は一連の手際がとても良い。 「ありがとう。……千明も水以外のもの頼めばいいのに」 「そうですよ、ここ桜井さんのお陰で大体何でもあるんですから」 椿樹の言うとおり、事務所のキッチンには飲料だけでも相当な種類のものがストックされている。管理は桜井の手で何故かきっちり行われており在庫切れとは無縁だ。にも関わらず水都は大抵水しか飲まない。というのも…… 「水が美味い」 この一言で終わりだ。どうしようもない。 「それにしても待機って珍しいですよ……先輩は何があったか知らないですか?」 「いや、俺も聞いてない」 八坂がパトロールの面子に加わって以来、三人全員が事務所で待機という日はこれまで一度も無かった。確かに妙な話である。おまけに桜井は待機を指示しただけでその理由は何も言わず何処かに行ってしまった。 「ほんとに桜井さんっていつも適当なんだから……」 「だな……」 万事休すかとため息をつく2人に水都がボソリと呟く。 「……月形さんなら僕たちより前に来てたし何か聞いてるんじゃ」 「「それだ!」」 デスクに身を乗り出し同時に叫ぶ八坂と椿樹。月形を探しに行こうと席を立った瞬間──肩を掴まれ、振り向くとその月形が立っていた。 「騒がしいわよ2人とも」 「あ、眞弥さん。実は少し聞きたいことが……」 「……依頼人。朝イチにアポが入ってたわ。今日の11時にここに来るからそれまで待ってろって事よ」 「なるほど、了解です……」 2人の会話を最初から聞いていたと言わんばかりの答えを寄越した後、月形は冷蔵庫から瓶入りのドリンクを取り出し一気に飲み干した。その表情には少々の疲れが滲んでいる。 「ああ、朝から支度だの何だの……」 「眞弥さんごめんなさい、あたしたちが何かお手伝い出来ることがあったら良かったんですけど」 「別に良いわ。貴方たちはこれからが大変なんだから」 「そんなに、ですか?」 「今回の依頼は『願いを叶える神様』絡みの案件よ。ここ数ヶ月警察が追ってるのに何の手掛かりも無かったって事は知ってるでしょう?」 僅かに空気が張り詰める。現時点では何もかもが謎に包まれた存在ではあるが……その名の響きだけでも不穏なものを感じずにはいられない。100年前から全ての事象を科学で解決してきたこの時代の日本に、得体の知れない神様を求める人々が居ること。──その背後には何か、底知れない闇があるように思えてならなかった。 「少なくとも、足掛かりになることは間違いないわ。だから桜井さんは貴方達全員をここで待たせている。気を引き締めてかかることね。……そろそろ時間よ」 事務所の卓上時計は11時の5分前を指している。──八坂にとっては初めての依頼だ。嫌でも緊張に手が震える。ワイシャツの襟を整え席を立つ。1階へ降りようと階段に踏み出したところで、椿樹がぽつりとこぼした一言に足を止めた。 「……神様、か」 「七瑛路……?」 「いや、何でもないです。ただ……」 何か思うところがあるのか、やけに曇った表情のまま言葉を続ける。 「その”神様”が誰かを幸せにしない存在だったら、嫌だなって……」