第5話 日常への回帰
- 字
10月28日 私の組織に新しく魔術使いが加わった。彼は日本人による魔術使い排斥の被害者として最も分かりやすい例だと考えられる。この国にまだ人権という概念があると仮定すれば、これは重大な人権侵害として訴えられるはずの問題だ。そうならないのは日本の人々が魔術使いを攻撃することを容認しているからだろう。 しかし魔術が使える日本人の数は絶対的に少なく、彼らによってその他の市民が不利益を被っているとは考えにくい。現在の日本は歴史的に見ても非常に豊かな時代を迎えている。ここまでの徹底的な排斥に理由も意義も無いことは明白である。魔術使いであっても税金を納め国民の義務を果たす人間である以上、人並みの権利を認めさせることは必要だと私も思う。 それにしても今日は頭が痛む。酒なんかを呑んだからだ。私にはこれから片付けなければならない仕事が残っているのに。私は何をやっているのだろう、そんな風に思う日ばかりだ。椿樹にも迷惑ばかりかけて申し訳が無い。 *** 翌朝。今までに無いぐらいスッキリと目覚めた八坂は、寝起きの悪い水都の代わりに簡単な朝食をこしらえた。椿樹に言われた集合時間は午前11時。彼女は慢性的な疲労を抱えた八坂を気遣い、敢えて遅めの時間を設定してくれていた。服は昨晩のうちに水都の家──八坂にとっては新居だが──に届けられていたため、その中からあまり傷んでいない服を選んで着替えた。恐らくこれも椿樹にはダメ出しされるだろうが……この際お言葉に甘えてそれらしい服を見繕ってもらおう。 水都は朝10時過ぎにようやく起き出し八坂の作った食事を摂った。集合場所は水都家の最寄り駅前であり急ぐ必要は無いが、それにしても寝坊が過ぎる。あらゆる行動の素早さと服装への無頓着さが「ギリギリまで寝ていること」を容易にし、よって彼は学生の頃から常に遅刻一歩手前の生活をしているのであった。 「千明、遅れたら俺が怒られるんだが」 「まだ大丈夫だろ」 「頼むよ……」 八坂が水都を急かしてなんとか11時を回る前に駅へと到着し、その直後に椿樹が手を振りながら駆け寄ってきた。今日は紺色を主体にしたワンピースを着ており、よそ行きだからか少し派手な青いリボンを髪につけていた。お洒落なのも大学時代から変わっていないようだ。 「昨日よりはだいぶ肌の調子とかが良さそうで安心しました。それにしてもやっぱり顔の良さに対して服装がショボすぎますね。……今日は覚悟しておいてくださいよ」 「分かった。もう七瑛路の好きなようにしてくれ」 開き直りの域である。しかしこれまでの人生において異性との付き合いが皆無だった八坂には、特に行動力の高い女子とショッピングをすることの大変さを理解しきれておらず──。 「ちょっと休ませてくれ、頼む」 都心まで移動し十数軒の服屋を巡った。矢継ぎ早に試着をさせ似合うと見込んだ途端カードを切って購入する椿樹と、黙々と何も言わずに荷物持ちをする水都、そして椿樹に振り回されフラフラになった八坂の3人が街外れのカフェに到達したのは午後2時を過ぎてからだった。一行はそれぞれ適当な昼食を注文し、4人がけのテーブル席に座った。 「疲れた……」 「ごめんなさい、先輩に服着せるのが楽しくってつい」 「いや、良いんだけど……」 椿樹が八坂に着せ購入した衣服はどれも落ち着いた雰囲気のミドルブランドものだ。確かに今まで八坂が自分で選んで買っていたものを着ているよりも遥かに”いい男”に見える。これがファッションセンス及び財力の差というものなのだろう。 「これ結構な額になっただろ、本当に全部出してもらって良いのか……?」 「大丈夫ですよ。これでも日本支部で8年は働いてますから」 SDEP日本支部のホワイト企業っぷりを見るにそこで長く働く椿樹の稼ぎは相当なものなのだろう。八坂は高校生の頃から働き続けている後輩に奢らせることを申し訳なく思いつつも、ありがたく受け取っておくことにした。 「ありがとう、七瑛路」 「こちらこそ。喜んでくれて良かったです!」 椿樹は水都が持つ買い物袋の一つから、赤色のリボンが巻かれた紺色のハットを取り出し八坂に被せた。これは八坂が唯一自分の手で選んだものだ。満足げに笑う彼女の表情は、長い間八坂とは別の意味で苦労を重ねてきたとは思えないほどに朗らかだった。 椿樹と別れ、2人が家に着いたのは太陽が傾き沈む頃だった。水都の部屋は駅からほど近い場所に建つ9階建てマンションの最上階にあり、扉を開けた彼らは大きな窓から差し込む西日に迎え入れられた。荷物の片付けもそこそこにソファへ倒れ込む八坂をよそに、水都は夕飯の支度をし始める。洒落た料理を作ったりはしない。適当な材料を適当に調理し、それなりに美味しく栄養のあるものが出来れば良い。男ふたりの間柄にはその程度の雑さがよく似合う。 ──二人暮らしをしていた高校時代を思い出させる光景。勉強にも部活動にも熱心だが体力が無い八坂はいつも帰宅後に倒れてしまうため、水都が平日の家事をほとんど全てこなし、支えていた。献身とは言葉に出すことなく行動として表すものである。報酬など無防備な姿を晒して眠る幼馴染みを間近で眺める権利ぐらいで十分だった。 水都は7年ぶりの”報酬”を堪能した後に八坂を起こし、ゆっくりと会話を交わしながら夕食を摂った。昨夜は再会の混乱と興奮が入り乱れ、落ち着いて話をすることが出来ていなかったのだ。──2人が離れている間それぞれに起こった出来事についての話。八坂は主に大学時代からの苦難の連続を語り、水都は国外を旅した後に日本に戻り日本支部に雇われるまでの経緯を語った。全て彼らを構成する要素ではあるが、もう昇華すべきただの思い出に過ぎなかった。 明日からはついに魔術師としての生活が始まる。桜井には「取り敢えず魔術を一通り使いこなせるように特訓するからね」と言われていた。今日は特に十分な休息が必要そうだ。日付が変わるよりも早く寝床に入り、目を閉じる。 この2日だけでも八坂の人生は大きく転換したと言える。今は魔術へ不安を感じるよりも、自身の力に期待を寄せられ恵まれた環境に身を置けることを喜べる時だった。 ──八坂祐吏は自身を受け入れる存在と出会い、人としての”復活”を遂げた。 それは世界に記されたシナリオが動き出していることを意味していた。だが彼らが課せられたものに気付くまでは、まだ時間がかかるだろう。