第4話 青春との再会
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「ところで先輩……さっきから言いたいことがあったんですけど」 「……なんだ?」 椿樹がまた八坂をジットリとした目で見つめていた。嫌な予感しかしない。 「なんですかそのボロボロの身なり! 服がダサいのはともかく破れたのをそのまま着てるとかあり得ないんですけど!」 「いやこれは」 「最後に会った時より痩せてるし……おまけに髪の色が変わるとか一体どんな生活してたらそうなるんですか……!?」 実際、今の八坂は清潔とも健康とも程遠い姿をしている。着古して汚れと破れが目立つパーカーにジーンズ、下は安物のスニーカーという出で立ちで、とても社会人として許されるようなものではない。髪の色は中途半端に脱色したような金茶色になっており、明らかに傷んでいることがわかる。整った顔立ちも身長180センチとそれなりに恵まれた体躯も猫背と痩せすぎで台無しだ。椿樹でなくとも苦言を呈するのには十分であった。 「もちろん先輩が見た目を気にする余裕が無かったことはわかります。でもね……折角の素材を活かさないのは罪なんですよ……!」 今日イチの剣幕かもしれない。八坂は恐る恐る尋ね訊いた。 「七瑛路、お前は一体何をするつもりで……?」 「今日からちゃんとお風呂に入ってご飯食べて寝てください。明日はあたしと服選びに行きましょう。買ってあげますから」 誘い文句などという可愛いものではなくもはや命令だ。ただでさえ椿樹を恐れている八坂に拒否する気力など無かった。無言の承諾。 「ああでも先輩の家って多分なんにも無い……ですよね」 「八坂くんの家はもう引き払わせておいたよ。危ないし」 「「えっ」」 「荷物は回収してあるから後で渡せるよ~」 目を丸くする2人に対し愉快そうに目を細めて笑う中年ひとり。八坂が住んでいたのは治安が非常に悪い地区にある古い安アパートで、度々公に出来ないような職業の者が八坂を監視しにやって来るような場所だった。確かに必要が無いなら近付かない方が良いだろう。だが桜井の手回しの速さは気持ち悪いぐらいだ。 「ただ新しい家の手配まではまだ出来てなくってねえ。取り敢えず今日は……」 「あたしの家に泊めるとか」 「いやダメだよ椿樹くん! いくら弱ってても男はケダモノなんだからね!?」 「何の心配ですかそれ!」 「七瑛路のところはちょっと勘弁してほしいんだが!?」 今日の宿が無いというそれなりに深刻な話題にも関わらずワイワイと収拾のつかない騒ぎを繰り広げようとしていた──ところに、水都がハッキリ割り込んだ。いつの間にか、八坂の肩に手をかけている。 「……僕の家なら問題ないと思いますが。十分に広いですし、何なら住まわせられます」 妙案だった。もともと同居していたことのある二人ならば気を遣うことも面倒事も無いだろう。椿樹と桜井は納得したようだ。水都は固まっている八坂に正面を向かせ、率直に告げた。 「祐吏、また一緒に住まないか」 「いいのか、あの時──」 ──お前の元から逃げ出した俺が。そう続く言葉が八坂から発せられることはなかった。水都が大振りな手で軽く八坂の口をふさいで短く答える。普段の鋭い静けさではなく、平穏そのものの声だった。 「当たり前だろ」 「……ありがとう」 7年ぶりの優しさに、少し気まずくなって目をそらした。……悪い気分ではなかった。 *** 話が終わった時点で既に時刻は午後5時を回っていた。SDEP日本支部の営業時間は一応午後5時半までらしいが、今日は特に来客も無いということで桜井が早めに営業を終了すると宣言した。その後、椿樹と桜井が4人分の夕食を用意し八坂たちに振る舞った。ごくごく普通の家庭料理といった風だが──八坂にとっては久々の温かい食事で、椿樹たちが振る雑談への相槌も適当に黙々と平らげた。 「ご馳走様でした。……ありがとうございます、ここまでしてもらって」 「いいんだよ~それじゃ今日は早く帰って休むんだよ、さもないと椿樹くんに怒られるぞ?」 「あたしそんなに怒りっぽくないですから!」 そう言う声が既に若干怒ってるんだよな……などと思った八坂だったが勿論口には出さない。怒られる。桜井はいつの間にか開けたワインを呑み、けらけらと笑っている。本当に自宅感覚というか、とてもだらしがない。いつも椿樹や月形に叱られているというのにも納得だ。 「桜井さん……あの、家はどちらで……?」 「ん~? もしかしてお誘いかな? 気が早くない? ……というのは冗談だけど。心配してもらわなくてもここが私の自宅だよ」 桜井はこのビルの3階に住んでいるという。通勤時間僅か30秒。 「だからと言ってこんな時間からお酒呑んでセクハラまがいの発言をするのはやめてください所長」 「ごめんなさい今日は許して……ほら椿樹くんたちも呑んでいいからさぁ……」 「お断りします」 ……もはやこの2人は熟年夫婦、それも尻に敷かれているタイプのものだ。一体何年の付き合いでこうなるのかと、八坂は自分と幼馴染みとのことは棚上げしつつ思うのであった。ちなみに酒は桜井以外誰も呑まなかった。 平和極まる食事を終え、午後8時を過ぎた頃に八坂と水都は事務所を後にした。椿樹もぼちぼち自宅へ帰るらしい。2人は温まった体を春の夜風に冷やしながら駅の方へ向かって歩いた。この時間帯の工場地帯は特に人が少ない──と言うよりまず事務所の周辺に人の集まるような居酒屋も無ければスーパーやコンビニの類も無い。住宅もほとんど無い。工場の従業員以外はそもそもここにやって来ない。こんな場所に事務所を構えていたところで、誰に知れるというのだろう。 事務所から駅までは歩いて10分ほどで着いた。小さな駅舎の入り口で野良猫が丸まっていたが、人影に気付いたのか逃げてしまった。築何十年、いや百年ものか? そう思うほどに薄汚れた外壁を微妙に手入れされた樹木が隠していた。券売機すら設置されていない駅舎から狭い無人の改札を抜け、僅かな明かりで不気味に照らされたホームに出る。当然のように誰もいなかった。壁に貼られた時刻表が次の電車が発車するまであと30分近くあることを示している。1日を通して本数は非常に少ないようだ。 八坂はベンチに座り込み、思わずため息をついた。文句を言える立場でないのは彼自身も分かっていたのだが……。 「千明、ここ……結構不便なんだな」 「すぐ慣れる」 八坂の隣に腰掛けた水都の表情は不思議と柔らかい。 「それに僕の家がある場所は普通に便利だから」 だから安心しろ、などとはわざわざ言わない。水都の口数の少なさは、無駄を好まないからではなく只々面倒臭がりなところから来ているのだ。そのことを誰よりもよく知る八坂は、水都と二人きりだとややお喋りになる。 「俺、まさかお前とまた一緒になれるだなんて思ってなかったよ。あの時はもう二度と帰らないつもりだったし……」 ──離れたかったわけではなく、離れる必要があったわけでもない。理不尽な感情が当時の八坂を自棄に走らせた結果に過ぎない。だがそんなことを伝える勇気は当然のように無かった。今も、無い。 「なあ、千明は今まで何してた?」 気まずさを誤魔化すように身を乗り出して尋ねた八坂から、水都は目を逸らして俯き抑えた声で告げる。そこには事実だけが乗っていた。 「僕はお前が出ていった1週間後にあの部屋を引き払って……しばらく日本を離れていた」 「……そうか」 「お前がいないあの部屋にいるのは辛いだけだった。だから離れて、全部忘れようと思っていた。──無理だったけど」 無感情に見える青年の感情の発露は分かりやすすぎる程に率直だ。彼の言葉からは一方的に拒絶されていたことへの恨みや嫌悪などではなく、離れ離れになったことへの寂しさだけが滲んでいた。八坂は水都のそんなところもよく知っていたはずで、だからこそ酷く居た堪れ無い気分に襲われる──それは罪悪感とも言える感情だった。 「祐吏、また会えて嬉しい」 空白の7年間を水都は責めなかった。それどころか八坂に謝らせることも許さなかった。八坂のことならば良くも悪くも全てを受け入れる、それが水都千明という人間の在り方。ひとつ間違えれば甘い依存の形だとも言えるが──その居心地の良さに八坂はふわりと微笑んだ。 「俺もだよ」 古びた列車の走る音が静寂を破る。30分に1本の電車が到着し、数分後に2人を乗せて出発した。降りる客も他に乗る客もいなかった。