loader image

第3話 新たな居場所(下)


「……祐吏」  青年は扉を開けたまま静かに八坂の名を呼んだ。一切の疑いを持たず、確信だけを持って。外から吹き込む風で細くサラリとした黒髪が流れて顔に当たっても、やはり微動だにせず八坂を見つめている。その目はペリドットを思わせる、揺らぐことの無い鮮やかさを湛えた黄緑色。彼から視線を向けられれば、その冷たさに慣れていない者は硬直してしまうかもしれない。──言うなれば完全なる「静」。決して気配が薄いわけではなく、むしろ強い存在感を持って彼はここにいる。  ──いっそ攻撃的ですらあるその静けさは、最後に会った時と何も変わっていなかった。 「千明チアキ、久しぶり……」  その声に滲んでいたのは歓喜か困惑か。八坂は駆け寄りたい衝動を抑えながらゆっくりと立ち上がる。そうしてようやく青年は玄関を閉めて事務所内に入ってきた。エコバッグを無造作に机に置き、無愛想極まる声で告げたのはパシリの報告だ。 「……桜井さん。言われてたもの、買ってきましたから」 「ありがとう。さてさて水都ミナトくん、急なことで申し訳ないけど……」 「祐吏をここに入れるんでしょう」  疑問の余地は無いと言わんばかりに遮り、八坂の前に足を進める水都。何の感慨も無い声色で一言「元気そうで良かった」と呟き、それ以上は何も言わなかった。台詞と態度が全く一致していないが、八坂は先程よりも表情をほころばせて頷いた。到底信じられない話ではあるが、水都は決して無感動な人間というわけでもない……と八坂の表情が物語っている。二人の間に余計な言葉は必要ない、ということなのだろう。  この異様な空気に割り込んで声を上げたのは桜井だった。ちなみに椿樹はついていけないとばかりに皿洗いを始めている。冷たい。 「……あのね。水都くんに八坂くん……君たち、どういう関係なんだい?」  彼らの様子を見ればまず浮かび上がる疑問である。八坂が視線をずらした先に見えた桜井の表情は少し困ったような苦笑いだ。本物の美丈夫はどんな表情でも様になるな、などと余計な感想を抱いたのはここだけの話である。何も言わずに突っ立っているままの水都に対し、八坂は桜井に説明しようと向き直った。  ──水都ミナト千明チアキは八坂の幼馴染みである。八坂が10歳の頃に出会い、ある事情から数年間は2人で同じ部屋に暮らしていた。長い間、お互いが最も信頼の置ける人間だった。しかし八坂は大学進学を期に水都の元を離れ、それ以来は会うことも話すことも無いまま7年が経っていた。八坂は自分が大学を追い出され、路頭に迷った時も水都を頼ることはしなかった。……自分から手を離していたのだから。  それだけの話です、と八坂は口を閉じた。彼の簡潔すぎとも言える語りでも桜井は十分納得した様子だ。そして思い出したかのように水都に座るよう促した。ここまでしない限り水都はまず立ちっぱなしだっただろう。 「そもそも水都くんにそんな関係の子がいるとはね。ちょっと意外だったけど知り合い同士と言うなら話は早い。……八坂くんに説明するとね、水都くんにはうちの一般職員として働いてもらっているんだ。まあもっぱら用心棒みたいな仕事ばかりさせてるけど」 「ですよね……」  水都は腕っぷしが恐ろしく強く、細々とした作業はとにかく苦手。彼がどういう経緯でSDEP日本支部まで行き着いたのかはともかく、用心棒という職業なら全く違和感が無い。 「一般職員……というのは普通何をしているんですか」 「水都くん以外の一般職員は事務仕事とか色々してくれているんだ。何せ今まで魔術使いは私と椿樹くんしかいなかったんだ、魔術使いだけで回せるわけがなくって……」  それでは少数精鋭どころではない。とほほといった感じで手を顔に当てる桜井。だがその後ろに戻ってきた椿樹が本気の呆れ顔で付け加えた。 「桜井さん、そういうこと言うのは営業時間中にサボって部屋でお菓子作ったり紅茶飲んだりするのをやめてからにしてくれませんか?」 「いやぁ椿樹くん……私は自分にしか出来ない仕事以外はやらないって決めてるからさ……」 「それ、眞弥マヤさんに言っていいですか?」 「絶対ダメ! 私殺されるから!」 「……眞弥さんって一体何者なんですか」  またもや置いてけぼりにされた八坂がツッコむ。妥当な質問だろうが、何故か桜井は溜め息をつき椿樹はニッコリと笑顔になった。 「月形ツキガタ眞弥マヤさん……うちの一般職員で、桜井さん的にはめちゃくちゃ怖い人なんです。所長がサボってる時は遠慮無くチクってあげてくださいね、先輩」 「ダメだよ、お願いだからやめてね八坂くん……」  ──桜井のあまりに弱々しい態度を見て、月形という職員は恐らくは椿樹を更に厳しくしたような人間なのだろうと八坂は思った。そんなの怖いに決まっている。彼女の前では気をつけようと内心で誓っていたところ──先程まで一言も挟まずぼんやりとしていた水都がふと呟いた。 「……月形さんが桜井さん以外に怒っているところは見たことないけど」  水都が八坂以外の他人について言及することなどめったに無い。 「そうですよ、仕事サボりさえしなきゃ怖くないんですからねー」  椿樹の容赦ない援護射撃でついに桜井は撃沈した。とても哀れである。 「……ああそうだ。先輩、ここにうちの契約書類載ってますから、よく読んで納得できたらサインしてくださいね。普通だったら桜井さんの仕事なんですけど、多分忘れてるので」 「ひどくない!?」  椿樹が八坂に差し出したのは最新型と思われる薄いタブレット端末だ。ご丁寧にスタイラスペンまで添えられている。画面には細かい字で色々と文章が表示されており、手に取って黙読し始めたのだが……しばらく読み進めたところで、「ほ、ホワイト企業だ……!」と叫んでうっかり取り落としかけてしまった。 「いやちょっと待ってくれ就業時間はまあ普通かもしれないけど週休2日残業なしで基本給プラス各種手当付きなのか!? というか基本給高すぎる、今まで俺が働いてたところでこれだけ稼ごうと思ったら多分週7フルタイムでも無理だと思うんだが……」 「先輩」 「昼休憩が1時間もあるだなんて凄いな、大学よりも長いじゃないか! そもそもこんなにキッチリした労働条件が示されている時点であまりにも優良すぎる……七瑛路、これって現実なんだよな? 人間扱いされているかすら怪しい職場での労働で疲弊しきった俺の精神が作り出した夢とかじゃないよな?」 「先輩……」 「ああ、これなら借金も問題なく返済できそうだ……」  八坂は基本的にあまり口数の多い方ではないし、水都よりマシとはいえ表情が豊かというわけでもない。そんな彼が頬を紅潮させ尋常でない早口で捲し立てる姿に椿樹(と水都)は困惑していた……だが桜井は「借金」という単語を聞いて唐突にタブレットを取り上げ、何やらひとつふたつと操作して八坂に返した。契約書類へと新しく追加されたページには「以上の労働契約を締結した時点で、労働者が○○から借用した借金、計5500万円は全額使用者であるSDEP日本支部長が代行して支払うものとする」と書かれていた……。 「……桜井さん、これって」 「君の借金はうちの腐るほど余ってる予算で肩代わりするってことさ。私は君の力に期待しているからね……これは前払いとでも思ってくれれば良いよ、遠慮は要らないけど感謝はしてくれると嬉しい!」  ……いや、とても感謝なんて言葉だけでは済まない厚遇だ。自分にここまでされる価値が果たしてあるのか、この時の八坂には全く分からなかったが、厚意には応えようと背筋を伸ばし深々と頭を下げる。言葉は喉でつっかえて中々出てこなかった。 「あ……俺、出来ることなら何でもします、この恩はなんとしてでも……」 「ふふ、まあそんなに畏まらなくていいって。……君をこうやって助けるのも、私が掲げる目的に沿った行動だということはわかるだろう?」  ──居場所の無い日本の魔術使いをすくい上げ、居場所を与える。これは壮大な目標を達成するための一手だと言う。 「はい……期待に添えるよう頑張ります!」  八坂は契約書類の最後のページにサインをし、タブレットを桜井に手渡した。……こうして八坂は正式にSDEP日本支部の魔術使い(名称としては特別職員、と言うらしい)として迎え入れられることになった。


送信中です

×