第1話 戦う意思
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ザリザリと、何かを踏み砕く音を立て走る青年の姿が閑静な国道にひとつ。彼が踏み砕いているのは路面いっぱいに張った氷。目線を上げれば路面だけでなく街灯、街路樹に自動車、果ては周囲の建物に至るまでが氷の塊に覆われている事が分かるだろう。しかし青年は異様な風景には目もくれず、むしろそこから逃げるかのように全速力で走り続けている──。 景色は流れて約30分、青年は市街地を抜けて工場地帯の中心まで走り抜けた。体力に限界を感じ、適当な工場の陰へ隠れるように座り込む。今のところ近くに人の気配は無い。荒い息は整わないまま、じっとりと汗ばんだ顔を歪めて呻いた。 「どうして、またこんなことに……!」 駅から工場地帯まで、逃げた軌跡の通り氷漬けになった街。南極大陸のような自然の氷で出来た景色ではなく、人工物を上から氷で覆っただけの不自然な様相。そしてその氷自体も不自然な程に純粋な青色を放っている。 青年──八坂祐吏にはこの状況に心当たりがあった。彼は改めて周囲を見渡すと、「心当たり」を「確信」に変え深くため息をつく。この景色は忌まわしい記憶と同じものだ。大惨事とも言える今の状況は自分が原因であること、同じような惨事をたった3年前にも引き起こしていること。この氷はエルピス──言い換えれば魔術と呼ばれる力で生み出されているらしいこと。自分はこの力が使えるらしいこと。しかし制御は効かないこと。そして少なくともこの国で魔術の存在は禁忌であるということ……。 魔術が使えてしまう八坂にとって、この国には敵しかいない。誰も彼もが何故かこの未知の能力を嫌い、使える人間を社会から排斥していった。まず、今回だってあの時だって、彼は決して故意で使ったわけではない。本来ならば間違いなく正当防衛を認められていたはずで──そもそもこんなことに巻き込まれやすい不幸体質を八坂は心底恨んでいるのだが──とにかく、この状況を脱しないことにはかつてと同じ結末を迎えるだけだろう。 息を吸う。衝動で熱を持った頭と身体を冷やす。そして思考を巡らせる。まず、逃げ出したのは警察に捕まることを恐れていたからだ。これ以上の罰を受けることが怖いからだ。……本当にそうなのか? ──かつて禁忌を犯した結果、今はまともに社会生活を送ることすら出来ていない。立場も金も何も無く、つまりあらゆる人々から価値を認められていない。 そう、失うものなんて最初から無い。何をしたって誰の目にも止まらず消えていくだけだ。ならば。 八坂は立ち上がり、左手に力を込めた。遠くには警察官らしき人影がいくつか見えている。追いつかれるまでもう僅かな時間しかない。躊躇いを捨てた青年は人影を睨みつけ、念じる。 「全て、凍りついてしまえ」と。 初めて”意思”が乗った力は暴走することなく瞬時に氷の壁へと形を変える。向こうからは警官たちが驚き、騒ぎ立てる声が聞こえてきた。気にせず念じ続ければ厚みと大きさが更に増していく。4車線の道路を完全に塞ぐほどの大きさまで成長したところで、八坂は自らの口角が少し上がっていることに気付いた。──これなら、戦える。もうこの力を恐れなくていい。ただの人間を恐れなくていい──。 人影を全て飲み込まんとする勢いで氷は伸びていく。前に見える乗用車などはもう壁と一体化してしまっていた。今の八坂に、中の人間がどうなっているかを気にかける余裕はない。ただ全てを凍らせてしまいたい一心で前方に集中していた。……集中していた。故に彼は気付けなかった。後ろから伸びる「炎」の存在には。 その炎は、完全燃焼した青色の炎よりもさらに鮮やかな水色に見えた。八坂がそれを認識した時には既に遅く、彼の身体は炎に縛り付けられていた。何故か熱さは感じないが、とにかく身体が動かない。──これは魔術だ。そんな確信を持ったところで何も対処法は浮かばない。 それでも最後の気力を振り絞る八坂に対し、炎はさらに縛る力を強め──軽々と彼の身体を持ち上げ、工場の壁に向かって放り投げた。そこはちょうどゴミ捨て場だったようで、八坂は壁に叩きつけられる事こそ無かったものの大量のゴミ袋の中に埋もれてしまった。全身に鈍い痛みを感じ、意識が揺らぐ。既に限界を迎えた体はちっとも動いてくれない。 この魔術の使い手が何をしたいのかは分からない。だが、絶対に勝てない相手だということは十分に理解できた。ささやかな抵抗すら無駄に終わりそうだという事実に唇を噛む。 ──ゴミ袋を勢いよく蹴飛ばすような音に、飛びかけていた意識が強制的に引き戻された。追いつかれたのかと、反射的に見上げる。そこには赤いコートを着た長身の男が八坂の顔のすぐ横に足を伸ばし、壁を踏み付けていた。 歳は30代半ばと言ったところだろうか。透き通るような銀色の前髪から覗いた碧眼は鋭く、あまり年齢を感じさせない顔立ちは同性から見ても非常に美しいと言える。そこに存在するだけで絵になる姿は、人の目を奪うために作られたかのようだ。 ──先程まで辺りを覆っていた青色が、氷が見当たらないことに気付いた。今いる場所だけでなく遠方の氷の壁も綺麗さっぱり消えている。──炎を操る魔術使い。それが目の前にいる男だとすれば、八方塞がりだ。 驚きと恐怖で動けない八坂に対し、構わず男は口を開いた。 「随分と暴れてくれたようだね、八坂祐吏くん」 「……っ」 とにかく、得体の知れないこの魔術使いを相手に立ち向かうなど無謀にも程がある。八坂は出せなくなった声の代わりに、目線で投降の意思を示した。 男は、八坂にもはや抵抗の意思が無いことを確認すると僅かに微笑んだ。八坂はその笑顔に対し、警戒は解かずに問いかける。ようやく出せた声は情けないほどに震えていた。 「……あなたは一体、何を」 男は足を壁から剥がし、八坂に手を差し出す。この男から害意はもう感じない。そして彼は、今──間違いなく救いとなる言葉を聞いたのだ。 「そうだね……私は君を、魔術を使ったからなんて理由で捕まえようだとか罰しようだなんて思っていないさ。強いて言うなら……」 「私は、君の”居場所”を知っている」 「!!」 居場所。それは、かつて理不尽に奪われたもの。ずっと取り戻そうと足掻いてきたもの。取り戻そうとして、またも失いかけていたもの。それをこの男は知っているという。罠だとしても、縋りたい思いが八坂の中で立ち上る。──半ば吸い寄せられるように手を取った。 男は満足そうな笑みを浮かべ、八坂に新しい道を指し示す。 「うんうん、君は中々にいい子だね。さあ、ついておいで?」